探偵小説の構造(29)
「ジャンルとしての探偵小説がもっぱら探偵小説ばかりを書く職業作家たちが遵守する諸規則の緊密に構造化された一システムに発展してきている以上、反―探偵小説をこのジャンルの延長線上にとらえないで、むしろその侵犯、もしくは変化としてとらえるのが、一番審理に叶うように思われる。古い技法を新たに用いて、それがあるジャンルの更新につながることもあれば、別のジャンルの確立につながることもある。また、今の場合はこれだと思うのだが、探偵小説と目に見えるつながりをいろいろと保ちながら(中略)あらゆる基本的に新しい意味も持つような現象につながることだってあるのだ。」
技法的な点で反―探偵小説の諸作は、「探偵小説の流れの中の究極的かつ一切を満たすつなぎ目(リンク)であり、そもそもこのジャンル自体に意味を与え、その存在を正当化してくれるもの」としての「解決」を脱構築し、脱中心化するという共通点をもつ。「各種反―探偵小説の間にちがいをもたらすもの、それは解決に対する多かれ少なかれラディカルな処理である。古い諸形式に対する処理が新しい内容をつくりだす。他のすべての要素が手付かずのままのように見えなければならないのは、そうすることでその小説が冒頭では読者の目に探偵小説として映り、結末に至って初めてこのジャンルを否定するものとして現れるということが可能になるからである」。「探偵が事実を再構築する際に語るファーブラ」の必然性において反文学たらざるをえない探偵小説は、「買いけるに対する多かれ少なかれラディカルな処理」を共通点とする反―探偵小説において逆説的にもポストモダンな前衛文学に変身する。ターニによれば、その処理法は<革新>、<脱構築>、<メタフィクション>の三者に分類される。
『薔薇の名前』に代表される<革新>パターンでは、「探偵小説の型通りの規則は気ままに用いられたりひねられたりするが、逆転させられるということはない。『競売ナンバー四十九の叫び』に典型である<脱構築>パターンでは、「対抗的構成原理が実現される。解決の代わりに解決の宙吊り」という特徴が指摘される。
ターニがポストモダンな文学理論家の立場から評価するのは、むろん第三の<メタフィクション>パターンである。検討されている事例としては、『冬の夜のひとりの旅人が』、ナボコフ『青白い炎』など。「パロディと『間テクスト的探偵行為』という、ポストモダンの想像力が成長していく過程で近時主流になってきたこのメタフィクショナルな関心こそ、ここにあげた第三の柔軟この上ない反―探偵小説の種類に典型的に見られるものなのである」とターニは主張する。
(前略)探偵小説論の文脈で主張されるポストモダン小説とメタフィクションの賛美や過大評価もまた、結果として高度資本主義の無批判なイデオロギー的反映であるポストモダニズムの限界を必然的に共有することになる。それは一九八〇年代の日本で盛大に流行したような、リゾームやディコンストラクションのスローガン的連呼において、脱構築的な構築である天皇制システムを肯定する結論にさえ帰結しかねない。(P169-170)
ターニの議論の無視できない欠陥は、メタレヴェルへと際限なく自己累積するジャンルとして、探偵小説という奇妙な形式を把握しえない点にある。ターニは懸命に、「ポー起源のひた押しに推理を押していくタイプの探偵小説」と「文学的=ポストモダン」な反―探偵小説を切断しようと努める。例えばアガサ・クリスティ作品の否定として、反―探偵小説は誕生したのだと。大戦間の英米作品の影響下に反―探偵小説を書き始めたシャーシャなども、探偵小説の受容におけるイタリア的な特殊性の産物であると位置づけられてしまう。
(前略)『アクロイド殺人事件』は探偵小説の構造を、構造の内的必然性において決定的にずらしてしまう異様な作品である。それは「異様な犯人」パターンのヴァリエーションとして、新たに「語り手=犯人」トリックを提出したというふうな常識的な整理法の枠内に収まりうるものではない。『アクロイド殺人事件』は、ターニが言及している一九四〇年代の先駆的な反―探偵小説作品(たとえば「死のコンパス」)よりも、さらに早い時期に書かれているという事実も無視することはできない。(P171)
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