2008年12月 1日 (月)

探偵小説の構造(29)

 「ジャンルとしての探偵小説がもっぱら探偵小説ばかりを書く職業作家たちが遵守する諸規則の緊密に構造化された一システムに発展してきている以上、反―探偵小説をこのジャンルの延長線上にとらえないで、むしろその侵犯、もしくは変化としてとらえるのが、一番審理に叶うように思われる。古い技法を新たに用いて、それがあるジャンルの更新につながることもあれば、別のジャンルの確立につながることもある。また、今の場合はこれだと思うのだが、探偵小説と目に見えるつながりをいろいろと保ちながら(中略)あらゆる基本的に新しい意味も持つような現象につながることだってあるのだ。」
 技法的な点で反―探偵小説の諸作は、「探偵小説の流れの中の究極的かつ一切を満たすつなぎ目(リンク)であり、そもそもこのジャンル自体に意味を与え、その存在を正当化してくれるもの」としての「解決」を脱構築し、脱中心化するという共通点をもつ。「各種反―探偵小説の間にちがいをもたらすもの、それは解決に対する多かれ少なかれラディカルな処理である。古い諸形式に対する処理が新しい内容をつくりだす。他のすべての要素が手付かずのままのように見えなければならないのは、そうすることでその小説が冒頭では読者の目に探偵小説として映り、結末に至って初めてこのジャンルを否定するものとして現れるということが可能になるからである」。「探偵が事実を再構築する際に語るファーブラ」の必然性において反文学たらざるをえない探偵小説は、「買いけるに対する多かれ少なかれラディカルな処理」を共通点とする反―探偵小説において逆説的にもポストモダンな前衛文学に変身する。ターニによれば、その処理法は<革新>、<脱構築>、<メタフィクション>の三者に分類される。
 『薔薇の名前』に代表される<革新>パターンでは、「探偵小説の型通りの規則は気ままに用いられたりひねられたりするが、逆転させられるということはない。『競売ナンバー四十九の叫び』に典型である<脱構築>パターンでは、「対抗的構成原理が実現される。解決の代わりに解決の宙吊り」という特徴が指摘される。
  ターニがポストモダンな文学理論家の立場から評価するのは、むろん第三の<メタフィクション>パターンである。検討されている事例としては、『冬の夜のひとりの旅人が』、ナボコフ『青白い炎』など。「パロディと『間テクスト的探偵行為』という、ポストモダンの想像力が成長していく過程で近時主流になってきたこのメタフィクショナルな関心こそ、ここにあげた第三の柔軟この上ない反―探偵小説の種類に典型的に見られるものなのである」とターニは主張する。
 (前略)探偵小説論の文脈で主張されるポストモダン小説とメタフィクションの賛美や過大評価もまた、結果として高度資本主義の無批判なイデオロギー的反映であるポストモダニズムの限界を必然的に共有することになる。それは一九八〇年代の日本で盛大に流行したような、リゾームやディコンストラクションのスローガン的連呼において、脱構築的な構築である天皇制システムを肯定する結論にさえ帰結しかねない。(P169-170)
  ターニの議論の無視できない欠陥は、メタレヴェルへと際限なく自己累積するジャンルとして、探偵小説という奇妙な形式を把握しえない点にある。ターニは懸命に、「ポー起源のひた押しに推理を押していくタイプの探偵小説」と「文学的=ポストモダン」な反―探偵小説を切断しようと努める。例えばアガサ・クリスティ作品の否定として、反―探偵小説は誕生したのだと。大戦間の英米作品の影響下に反―探偵小説を書き始めたシャーシャなども、探偵小説の受容におけるイタリア的な特殊性の産物であると位置づけられてしまう。
 (前略)『アクロイド殺人事件』は探偵小説の構造を、構造の内的必然性において決定的にずらしてしまう異様な作品である。それは「異様な犯人」パターンのヴァリエーションとして、新たに「語り手=犯人」トリックを提出したというふうな常識的な整理法の枠内に収まりうるものではない。『アクロイド殺人事件』は、ターニが言及している一九四〇年代の先駆的な反―探偵小説作品(たとえば「死のコンパス」)よりも、さらに早い時期に書かれているという事実も無視することはできない。(P171)

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2008年11月24日 (月)

探偵小説の構造(28)

 探偵小説が反文学だとしたら、逆に「反探偵小説」は文学になるのではないか。こうした観点からステファーノ・ターニは、『やぶれさる探偵』で、「文学的=ポストモダン」と定義される対応の探偵小説を仔細に分析している。
 「モダニズムからポストモダニズムを分かつ最大の違いは、ポストモダニズムが<中心>を欠いていて、統一するように働くいかなるシステムも持つまいとする点であることになろう。ポストモダニズムはいかなる終わり(ファイナリティ)も、いかなる解決も存在しないのだという新しい意識を獲得する。(中略)読者の期待感を満足させるはずの慰藉の「低い」ジャンルたる探偵小説はこうして、その倒立した形でポストモダニズムの理想のメディアと化す。その倒立した形、すなわち反―探偵小説においては、読者の期待は間断なくはぐらかされ、一個のマスメディア・ジャンルがアヴァンギャルド感性の洗練された表現に姿を変える。中心に坐ってすべてを秩序化している人物として探偵に代わって、そこに跳梁を許されるのは混沌とし、脱―中心化する謎と「無解決」である」(高山宏訳)
 ターニの「中心に坐ってすべてを秩序化している人物として探偵」が、モレッティの「探偵が事実を再構築する際に語るファーブラ」に論理的に対応しているのは明らかだろう。それらはいずれも、世界の形而上学的な秩序化の中心であり、フランスの現代思想が批判してきた理性中心主義や男根中心主義の探偵小説における反映であると見なされている。
 しかし、両者が異なるのは、「反文学」にすぎない探偵小説を否定するモレッティに、ターニが「脱―中心化する謎と『無解決』」と特徴づけられる「反―探偵小説」なるものを対置する点だ。それはボルヘス「死のコンパス」、ロブ=グリエ『消しゴム』、ナボコフ『セバスチャン・ナイトの真実の生涯』など一九四〇、五〇年代の作品群から、さらにガードナー『太陽の対話』、エーコ『薔薇の名前』、ピンチョン『競売ナンバー四十九の叫び』、カルヴィーノ『冬の夜のひとりの旅人』などにいたる、文学研究の世界ではポストモダニズム文学に分類されるタイプの作品系列である。
 ポストモダニズム小説が残らず反―探偵小説であるとはいえないにせよ、反―探偵小説は原則としてポストモダニズム文学に属しているとターニは主張する。さらに文学的=ポストモダンな反―探偵小説は「多元的な関心が――伝統とポストモダンが、大衆文化(マス・カルチャー)と高級文化(ハイ・カルチャー)が、イタリアとアメリカが、イタリア/アメリカと西欧社会が切り結ぶめざましい交差点」、「解けざる謎とやぶれざる探偵が、人間とその限界をめぐるもっとも楽天的ではないにしろもっとずっと成熟した感覚に出会う交差点」であると最大に評価される。ようするにターニは、歴史的な探偵小説ジャンルのメタレヴェルに生じた新しい文学ジャンルとして、反―探偵小説を位置づけようとする。(P167-169)

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2008年11月17日 (月)

探偵小説の構造(27)

 読者が懐疑することのない自明性を結末において劇的に破壊する結果、心理的トリックは目覚しい効果を発揮しうる。物理的トリックが世界の客観的構造を前提とするのにたいし、心理的的トリックは惰性化され構造化された人間的主観性を標的とする。個人としての人間でも、ほとんどの場合は日常的心理、思い込み、常識、等々という社会的な意識性の支配下におかれている。
 「モルグ街の殺人」の例を見るまでもなく、純粋な物理的トリックは存在しえない。どのような物理的トリックであろうと、多少の心理的部分は必然的に含まざるをえないのである。驚きや意外性とは、もともと心理的なものだ。たんに物理法則が自己貫徹しているだけでは驚異は生じえない。客観的世界を感覚し認識する主観の存在が、驚きという目覚しい経験の前提にある。冒頭の謎が結末で論理的に、客観的世界の構造性において解明される探偵小説の作品構造は、心理的トリックの場合には機械的トリックよりも質的に高度である。針と意とで外からドアを開けられるとしても、それは読者にとって外的な事実にすぎない。謎が事実性において解明される結果、驚異もまた外的な水準から脱しえない。
 だれもが驚嘆するように、ブラウン神父の連作は心理トリックの宝庫である。チェスタトンは「盗まれた手紙」の、「状差しは多数の家具に、手紙は状差しに隠せ」という心理的トリックを多様に変奏しているが、なかでも注目に価するのは、監視者の視界から郵便配達人が消滅するという独創的なアイディアだろう。タキシードを着用した給仕のフランボウが夜会の来客の群れに紛れ込んでしまうアイディアも。
 現象学者は、存在者には無限の「内部地平」があるという。どんな事実であろうと、その意味は無限に多様なのだ。だが、日常的意識にたいして事物は機能性においてしかあらわれない。コップは液体を唇に運ぶための道具である。われわれは日常、このコップとあにコップを厳格に苦熱したりはしない。なんらかの動機が介在しなければ、そもそも区別しようという発想さえ湧かない。現象学では、このような事物の意味の機能的な一義化を「意味沈殿」と概念化する。(P164-165)
 「人間」を職業などの機能性に還元する社会的必然性の暴力に、探偵小説は内面性の真実なるものを対置するわけではない。「私」を職業的帰納にまで摩滅させるところの、社会的必然性の暴力を逆手にとる犯人の描出において、探偵小説は意味沈殿の必然性を一気に裏返そうとする。「私は私である」を特権化する近代小説に反し、探偵小説は「私は私ではない」ことを告げる。犯人の心理トリックに欺瞞された読者は、結末の真相において、「私」の意識が社会的なものに浸されて存在していること、ようするに「私は私ではない」という異様な事実に直面するのだ。(P166)

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2008年11月11日 (火)

探偵小説の構造(26)

 探偵小説は自己完結的な人間存在に、前近代的な妖精や魔物を対置するわけではない。妖精か魔物の仕業としか思われない謎を提起し、それが近代的主体でも承認しうる物理法則の範囲内にあることを解明する探偵小説のトリックは、謎自体を一個の象徴に転化してしまう。密室に近代的自我のメタファーを読む読者は、それが二重に破壊される「モルグ街の殺人」に繰り返し挑発されざるをえない。
 同型的なトリックが多数の作品で反復された結果、読者に退屈しかもたらさないようになるのはトリックのせいではない。密室が近代的自我を異化する装置であることに無自覚な作者が、密室トリックを凡庸化するのだ。西欧中心主義や人間中心主義が君臨し続ける限り、モルグ街に響きわたる「異様な叫び声」の象徴性は失われることがない。近代的自我の自己完結性が信じられている限り、密室パターンもまた不滅だろう。(P160-162)
 針と意図などでドアを外から施錠したり解錠したりするトリックを考案しえても、だからといって優れた密室小説が書けるわけではない。
 窓枠のなかで折れている釘という機械的トリックは、「モルグ街の殺人」の密室トリックにおいて、必ずしも中心的な位置を占めていない。重要なのは、「警察じゃ、バネで止まっているのを釘で止まっていると勘違いして――もうそれ以上、調べる必要はないと思ったのだ」というデュパンの指摘だろう。作中人物の、そして読者の自覚的に反省されることのない日常意識や、臆断(ドクサ)に向けて仕掛けられたトリックという点では、むしろ心理的トリックの領域に分類される。「盗まれた手紙」では心理トリックが自覚的なものとして退出されているが、その萌芽は「モルグ街の殺人」にも見出される。
(P162-163)
 探偵小説においては、冒頭の謎がそれ自体として読者に驚異の印象を与えるのではない。謎が合理的に解決されることで、はじめて探偵小説的な驚きが実現される。だから「探偵が事実を再構築する際に語るファーブラは、読者を巻頭に引き戻す、つまりファーブラは物語を廃する」というモレッティの非難は顚倒している。結末に配置された謎の論理的解明(守備一貫したファーブラ=ストーリーの提出)においてのみ、冒頭の謎と、謎に導かれた試行錯誤の過程(物語のシュジェット=プロット)は生きる。たとえば機械的なトリック小説であろうと、「ファーブラは物語を廃する」わけではなく、反対に「ファーブラが物語を生かす」のである。
 この点を歴然と示すのが心理的なトリック小説だろう。機械的トリックと心理的トリックには無視しえない相違がある。密室ジャンルの心理トリックでは、ドアの陰に隠れていた犯人が屍体発見の混乱のなかで部屋を抜けだすとか、ドアを破って最初に倒れている被害者を抱き起こした人物が、同行者に見えないようにまだ生きていた被害者を殺害する、等々の事例を初歩的なものとしてあげることができる。(P163-164)

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2008年11月 9日 (日)

探偵小説の構造(25)

 小説空間では、現実には不可能であるはずの謎めいた出来事を、作者は自由自在に読者の前に差し出すことができる。しかし、それだけで読者の興味を惹きつけるわけにはいかない。奇術の謎と探偵小説の謎には存在性格に根本的な相違がある。
 奇術の場合には、たとえば密室から人間を消すことで観客の興味を喚起することが期待できる。それは「消えること」自体が、日常的な意識には疑えない物理法則をはじめとする現実世界の秩序に反しているからだ。小説空間では「消えること」字体に驚くほどの意味はない。あらゆる嘘が可能な言葉の世界である以上、どんな努力も必要なく作者は人間を消すことも虚無から出現させることも許されている。奇術師は、物理法則に反する謎を舞台に上に出現させる。探偵小説は、言葉の世界だから楽々と可能であるような恣意的に捏造されたとしか思われない謎が、たとえば物理法則に即して解明できると説得的に提示することにおいて、奇術に匹敵する幻惑的な効果を読者に与えうるのである。探偵小説におけるトリック性の本質は、以上のようなところに見出される。
 大戦間の時代に形式化された探偵小説の約束事、いわゆるフェアプレイ原則に即していえば、『モルグ街の殺人』にはアンフェアなところがある。本来なら窓にバネがあることを警官が見逃していることも、第二の窓の釘が折れていることも、あらかじめ伏線として読者に示されていなければならない。フレイドン・ホヴェイダのいわゆる大戦間の「厳格主義」的な偏執は、人間をモノにまで還元した第一次大戦の経験に由来している。同じ基準で半世紀以上も昔の作品を裁断することに、批判的な妥当性は認められない。(P158-159)
 探偵小説における密室は、逆説のようだが密室ではない。なぜなら密室は、作中で二重に破られるからである。第一に、密室を幽霊のように出入りしうる犯人の存在において。第二に、犯人の出入りを物理法則にかなうものとして解明し、読者に犯行の真相を追体験させる探偵の推理において。だから密室においても、近代文学を異化するものとしての探偵小説の原理は再現されている。近代小説の主人公である「人間」なるもの、自己完結的な自我、内側に閉じ込められた球体としての近代的内面は、犯人と探偵の双方から破られる探偵小説の密室という形で二重に破壊されてしまうのだ。破られるものとしての探偵小説の密室は、内面という球体に走る禍々しい亀裂を暗示する。
 密室として提出された謎は、物理法則に反しないものとして解明される。探偵小説とは、物理法則に代表される世界の科学的客観性を不可解な謎の解明において称揚し、科学性や客観性というブルジョワ的な原理を読者に教訓化するものだとモレッティは非難する。だから探偵小説は反文学的で制度的なのだと。
 しかしポオによる密室トリックには、あの「異様な叫び声」と同型的な二重性が刻まれている。それは密室のメタファーにおいて鮮やかに描き出される近代的自我の不可疑性を、冒頭において強調する。だが犯人は、密室の壁を平然と通過してしまうのだ。退出された謎は近代的精神の必然性(物理法則)に、前近代的な恣意性(たとえば妖精や魔物の存在)を対置するものだろうか。そうではない。最後に犯人がどのように密室の壁を通過しえたかも、物理法則に背反しない形で解明される。探偵小説空間においても物理法則は貫徹しているのだ。同時に物理法則を認識する主体でもある近代的な「私」は、特権的な住居にほかならない「密室」を作品の象徴的次元において解体されてしまう。近代的な主観性と世界の客観性の厳格な二項対立は、探偵小説の密室において根本的に脱臼を蒙らざるをえない。
 (乱歩の「類別トリック集成」にあるような)これら世紀にわたる風雪に耐えてきた設定や謎やトリックのパターンは、いずれも近代において惰性化され制度的に自明なものとみなされている臆断(ドクサ)を破壊する。
 顔のない屍体は、「私は私である」という近代的自我の事故反復を異化する。屍体移動は死者と生者の教会を混濁させる結果、生と死を二項対立的に措定(推論の前提として、とりあえず肯定された、いまだ証明されていない命題、定立)する近代的な死生観を異化する。類別化された設定や謎やトリックのパターンは、どれも「モルグ街の殺人」の密室に類比的なものとして、近代的な人間観や世界観を宙吊りにしてしまう点で共通性がある。(P160-161)

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2008年11月 4日 (火)

探偵小説の構造(24)

 あの「異様な叫び声」をモーリス・ブランショは「象徴」という言葉で呼んでいる。象徴は解釈を許さず、解釈のなかで死ぬ。「それは目覚めれば霧散し、明るみに出れば滅びる。その条件は生きたまま埋められることである」(『虚構の言語』重信常信、他訳)。「生きたまま埋められる」という箇所でブランショは、まさに「早まった埋葬」や「アッシャー家の崩壊」の核心に秘められたところのポオの詩的言語を暗示しているかのようだ。シャルル・ボードレールを通じてフランス象徴主義の成立に無視できない影響を及ぼしたポオが、解釈において象徴を殺害し、自足しえたとは考えられない。探偵小説は浮遊するシニフィアンに安定したシニフィエをもたらし、記号的に制度化することで詩的言語を日常的水準に引き下ろす反文学だ。このようなモレッティの非難が、きわめて一面的であることはもはや明らかだろう。(P154)
 「異様な叫び声」は、たんに殺害され埋葬されたのではない。パリの街路を浮遊するシニフィアンは、唯一のシニフィエを与えられ、社会的かつ制度的な記号関係に回収されたのではない。作者は「理解できない音声―オランウータンの声」の記号関係を作品空間に導入することにおいて、「目覚めれば霧散し、明るみに出れば亡びる」象徴を巧妙きわまりない仕方で「生きたまま」埋葬したのである。社会科された記号体系の底に、「生きたまま」埋葬された「異様な叫び声」は、深夜の城館に流れるマデライン・アッシャーの呻き声さながらに、社会的な記号体系や日常言語の世界を揺るがし、なおもずらし続けることだろう。(P154-155)
 「探偵小説と他とを区別している特徴は、深層の意味と表層の意味の距離である。読むたびに明らかになる多くの意味に気づかぬまま『ハムレット』や『エフゲニー・オネーギン』を読むのは不可能だ。しかし、殺人者の名前にだけ意味があるのだという確信をもってアガサ・クリスティを読むことは可能(ただし、それが普通)だ。実際、探偵小説を『再―読』する人などいるだろうか?」とモレッティは探偵小説を非難する。むろん探偵小説は再読に耐えるし、もしも耐えられないとしたら、水準の低い作品だからにすぎない。再読される価値のない作品は無数に存在し、それは探偵小説ジャンルに限られているわけではない。
 再読問題について、もう少し吟味してみよう。モレッティのようなポストモダンな文学主義者もまた、伝統的な文学主義者の常識を無自覚的に踏襲して、再読可能性を作品価値にまで直結させている。しかし、優れた作品は再読に耐えるという文学主義的な常識は妥当なのだろうか。一度しか読めないという体験の固有性にこそ、読むことの真の特性があるのではないか。反復して読むことで読者は作品を消化する。あるいは主体化して内部化する。しかし優れた作品は、断固として再読を禁じ、読者による内部化を絶対に許さないからこそ優れているのではないか。この点で探偵小説は、まさに特権的な読書体験をシステム化している。
 同時に探偵小説は、逆説的ながら読者に再読を強制するシステムでもある。優れた探偵小説であれば、読者は伏線を辿り直すために作品を再読せざるをえない。謎解きのカタルシスの意味を確認するため読者に再読を強制するのだ。一度しか読んではならないという命令と、再読しなければならないという命令のあいだで宙吊りになる異様な体験こそ、探偵小説を読むことの特異な魅力がある。「探偵小説を『再―読』する人などいるだろうか?」と得意げに語るモレッティは、読むことの一回性と反復性にまつわる謎を自覚的に思考することなく、「深い」テクストは「再読」を要求するという種類の凡庸な文学主義に流されているにすぎない。(P156-157)

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2008年10月30日 (木)

探偵小説の構造(23)

 探偵小説のパズル性に、近代小説の「人間」なるものを対置して批判する発想は、もはや過去のものだろう。しかし、それも複雑化され、多少とも現代的な装いを凝らした探偵小説批判の提携が存在している。現代的な探偵小説批判では、近代小説の理念を先見化するような時代錯誤はさけられ、その上で探偵小説は「反文学」であると避難される。(P149)
 探偵小説はプロットをストーリーに、「カタリ」を語られる「モノ」に還元する「反文学」であるとモレッティは論難する。それが作家に還元されない作品、主題に還元されないテクスト、記号内容(シニフィエ)に還元されない記号表現(シニフィアン)という種類の、ポストモダンな批評理論を背景に主張されている事実はあらためて指摘するまでもあるまい。(P150)
 モレッティは探偵小説における記号作用の二重性に注目する。
「手がかりとは、シニフィアン<記号表現>とシニフィエ<記号内容>のあいだのつながりが逆転しているストーリーに固有のあの要素なのである。つねにいくつものシニフィエを持ち、したがって多くの疑いを作り出しているのはシニフィアンである。(中略)探偵のほうは、犯罪を謎としている特長によって作られ、また犯罪を謎としている特徴でもある文化的な蓋然性、エントロピーを追い払わねばならない。彼は、シニフィアンとシニフィエのあいだに曖昧なところのないつながりを再び復活させる。」(P151)
 先にも述べたように、それぞれの言葉には意味には還元されない固有の物質性が随伴している。たとえば言葉と音声的なリズム、ある言葉と別の言葉の音声的な類似、等々。「イヌ」が二音節であろうと、「イケ=池」や「イマ=今」と音節的に類似していようと、言葉の意味としての「犬」とは』何の関係もないことだろう。意味としての「犬」は、むしろペットとして「猫」に、また生物学的分類から」「狼」にむしろ隣接している。
 大雑把に要約された以上のような種発点に、フォルマリズムは意味に還元されない言葉の物質性に注目し、物質性における言語の構造を探究した。日常言語とは異なる固有の世界を創造するものとして、フォルマリズムは詩的言語を定義する。フォルマリズムに影響されたモレッティが、探偵小説を「反文学」であると非難した背景も明らかだろう。
 深夜の街に響いた異様な叫び声、ようするに「理解できない音声」はシニフィエを欠いて浮遊するシニフィアンである。その意味はだれにも読解できない一個の謎をなしている。意味不明の「異様な叫び声」は、焼きリンゴのように概念的中心を抜かれた裸の音声イメージ、純粋な言葉の物質性である。モルグ街という不気味な名称で呼ばれる裏通りに深夜に響きわたる「異様な叫び声」とは、フォルマリストが想定する詩的言語そのものといえる。ところが探偵小説は物語の結末において、ゆらぎに満ちた詩的言語に安定したシニフィエをもたらし、それを日常言語の水準に引き下ろしてしまうのだとモレッティは論難している。
 それに依拠して日常言語が意味伝達を実現しうる、社会的に惰性化された記号作用の体系が存在している。深夜の裏町で理解できない異様な叫び声が聞こえたら、それは外国語に違いないいうふうな。「理解できない音声―外国語」という記号関係が、証言者の意識では暗黙のうちに成立しているのである。この点にかんする限り、どこにも謎めいたところはない。それぞれの証人は、惰性化された記号的世界に安住している結果として、謎を謎として見出しえないのである。(P152-153)

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2008年10月28日 (火)

探偵小説の構造(22)

 探偵小説に典型的に閉ざされたファーブラに対し、たとえば『フィネガンス・ウェイク』に代表される開かれたファーブラは、次のような特性をもつ。「この種のファーブラは、最後にさまざまの予想的可能性を開いてくれ、そのそれぞれの可能性がストーリー全体を(なんらかのテクスト、相互シナリオと協和しつつ)整合的なものとなしうるのだ。さもなければ、いかなる可能性も、ひとつの整合的なストーリーを再構成できない。テクストといえば、それはそこなわれず、ファーブラの最終状態について断を下さない。テクストは、そのいくつかのファーブラを自力で作り上げられるほどに、共同作業的な読者を予想するのだ」。(P145)
 探偵小説の読者は作中で「読者」の役柄を演じる探偵役を通して、あるいは探偵キャラクターの窓から作品空間に参入する。探偵は事件の謎を思考し正体不明の犯人を追跡する。読者は探偵役の側に立ち探偵役と一体化しながら、犯人という形で存在する作者の思考を追い求めることが要求される。あらゆる物語は読者に、多かれ少なかれ主人公や登場人物への感情移入をもたらすだろう。近代小説もまた例外ではない。
 そのとき読者は感情移入という形式で、作者の思考におのれの意識をゆだねるともいえる。だが探偵小説の読者が探偵役の側に立つとき、一般的な感情移入とは質的に異なる意味をもたざるをえない。読者は探偵にも未知である空白領域を、探偵と共有しなければならないのだ。読書行為において探偵役と一体化しても、読者は作者の思考におのれの意識を全面的に譲り渡すことはできない。それは探偵小説の構造からシテ原理的に禁じられている。なぜなら読者は探偵役において未知である犯人と、犯人の背後に潜んでいる作者の存在を他者として、不断に自覚することを強制されるのだから。(P146)
 探偵小説が小説の形をしたゲームである以上、探偵役と犯人の両極性は原理的に排除されえない。さらに探偵役の視点から作品空間に参入する読者もまた、最初から最後まで作者という他社製を予感しなければならない点において、作者の思考に意識を譲り渡しながらも作者を異物として意識し続ける自己分裂的な経験を強制される。繰り返すが、探偵小説の読者の自己分裂は、読者存在の実体性の還元が不徹底である結果ではない。失恋の直後に呼んだ『若きウェルテルの悩み』は、なるほど読者に独自の感銘をもたらすだろう。その場合、読者の実体性は還元されていない。しかし探偵小説の読者には、そうした実体的固有性が与えられえないのである。読者は中傷的なゲーム空間の一方の当事者にすぎない。
 プーレ的なテクストの純粋空間が閉じられているように、探偵小説の読書行為がもたらす経験もまた完璧に閉じられている。同時に、それが純粋なゲーム空間である以上、探偵小説の読書は他者に向けて開かれてもいる。探偵小説とは閉じられることにおいて開かれた形式なのである。同じことがファーブラとシュジェットの関係にもいえるだろう。
 探偵小説の場合、ファーブラを支配する作者(犯人)に、シュジェットに導かれる読者(探偵)が対応する。作品の結末において犯人が暴露される瞬間、それは「ファーブラ(つまり解決編)において明るみに出される組み合わせが、シュジェットによって提案された組み合わせからすべての価値を奪ってしまう」(モレッティ)結果を、ようするに読者にたいする作者の最終的な勝利をもたらすのだろうか。そうではない。勝利するのは探偵=読者なのである。この捩じれた構造のなかに、克明に対応するように見えながらも、「作者―作品―読者」の垂直的構造を異化する「犯人―被害者―探偵」の探偵小説的な分節性の秘密がある。
 マクルーハンは読者が「共著者として深くかかわる形式」、あらかじめ読者を繰り込んだ作品の構成という点に注目して、探偵小説形式を印象主義の支配から脱する象徴主義の先駆形態とみなした。しかし探偵小説を、諸々の象徴主義的表現と単純に同一視することはできない。探偵小説もまた、諸々の象徴主義芸術と同様に「現実を断片化し、それをモザイク的に表現する」。同時にモザイク的な断片を統一的なファーブラに組み立て、しかるのちにモザイク的な断片製の連鎖にほかならないシュジェットに最終的な勝利をもたらすという、きわめて重層的な方法をもつ形式が探偵小説なのだ。(P147-148)

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2008年10月27日 (月)

探偵小説の構造(21)

 活版印刷術の前提にはアルファベット表記の発明がある。アルファベットで表記された言葉は象形文字のそれのように、対象とのあいだに具体的、描写的な関係を原理的にもたない。換言すれば、アルファベットは世界と密着し、世界に拘束された文字ではない。それは世界のあらゆる対象を、さらには世界自体を二十四の表音記号に分解する。表音記号を再結合することで世界は完璧に再現しうるという確信は、活版印刷の発明において完成される。
 活版印刷術が近代の原子論的に均質な世界像をもたらした。マクルーハンはエドムント・フッサールがガリレイの測地術に見たものを、グーテンベルクの活版印刷術に見出したともいえる。デカルトの「延長」概念も、さらにニュートン力学も活版印刷術の産物ということになる。また印刷され大量生産された書籍は、あらゆる近代工業製品の歴史的原型となる。近代的な哲学や科学や経済、さらに同一の国民語を文化的基盤とする国民国家の理念もナポレオンの国民軍も、すべては活版印刷術が歴史的に産出したものであるとして、その総体をマクルーハンは「グーテンベルクの銀河系」と命名した。(P137)
 芸術史の常識的なターミノロジーに反して、マクルーハンは「印象主義」と「象徴主義」を概念的に対立させる。近世絵画の遠近法からモンテーニュの文章まで「印象主義」は、グーテンベルクの銀河系に内属するものである。そしてエドガー・アラン・ポオからヴァレリーやジェイムズ・ジョイスにいたる「象徴主義」が、グーテンベルク印刷術に規定された世界を超越する試みとして評価されているのである。
 「芸術の製作過程がポーからヴァレリーにいたる期間に、あたかも工業製品を製作するような厳密で非個性的な性格を帯びてきたかと思うと、とたんに象徴主義芸術の組み立てラインは「意識の流れ」方式によるあたらしい表現方法へと変質した。意識の流れは開かれた「場」の知覚であった。それは十九世紀に発見された組み立てライン、もしくは「発明の技術」のすべての面を逆転させたのである」(P142)
 マクルーハンによれば、グーテンベルクの名を冠するテクノロジーが社会全体を一個の銀河系として組織し終えた瞬間に、その極点から「あたらしい表現方法」が生まれた。「印象主義」から「象徴主義」への転換は、ポオの探偵小説に典型的なものとして見出される。「均質的な断片を作り出す」活版印刷術は、そもそものはじめから「一連の操作を終点から始める技術」を内在させていた。しかし、その可能性が極限まで展開されたのは十九世紀のことである。「たとえば計画生産とは生産工程の個々の段階を、まるで探偵小説を書くように逆に計画してゆく生産方式を意味する。商品の最初の大量生産時代、さらには読者市場へむけての商品としての文学の大量生産時代に入ると、消費者の経験を研究することが必要となった。要するに、なにも作らない前から、芸術や文学の『効果』を調査することが必要になったのである」。ポオの試論が、このような傾向の起点に位置するものであるとマクルーハンは指摘している。(P143)

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2008年10月24日 (金)

探偵小説の構造(20)

 近代小説の「作者―作品―読者」の垂直的構造は、探偵小説における「犯人―被害者―探偵」のキャラクター論的な三項性に照応する。しかし、両者が単純な照応関係にあるとはいえない。探偵小説もまた、近代的な「作品」以外ではないからである。換言すれば、探偵小説の「犯人―被害者―探偵」図式は近代小説的な「作者―作品―読者」構造の第二項、すなわち「作品」項に内化されて存在する。
 それは探偵小説形式が一方で近代小説の「作品」として存在しながら、同時に近代小説的な「作者―作品―読者」の垂直的構造からして、探偵小説はメタ近代小説という性格を刻印されている。それが探偵小説の他に還元されがたい形式的な固有性をなしている。(P132)
 読書とは、作者の思考を読者がおのれの思考とする経験である。読書の過程では、あらゆる認識および知覚の前提をなしている主体と客体の対極性が消滅する。読者は作者の思考におのれを譲り渡すことにおいて作品に存在を与え、存在の意識さえも与える。そこに出現するのはテクストの<意識>である。プーレは次のように結論する。「読書行為によって魂が吹き込まれ手いる間、文学作品は(読者自身の生活を棚上げすることを代償に)人間同然となる。文学作品は自分自身を意識し、私の中で、自分自身の対象の主体として自己構成を行う精神である」。(P134)
 イーザーも評価しているように、プーレの読書論はフッサールの現象学の方法を参照しながら、「作者―作品―読者」の近代的な三項図式を超えようとする試みである。プーレは、作品の特権的な起点である作者なるものを読書論の前提としない。また作者と同様に、読者もまた実体性を剥奪される。両者は作品に内化されたものとしてのみ存在しうる。しかし作必も、それ自体としては無であるにすぎない。読者がおのれの意識を作者の思考に譲り渡すという読書行為において、はじめてテクストの<意識>が生じる。むしろ、無からテクストが生成せしめられる。「テクストは自分自身しか発見しない」。読者が作品を鏡として諸々の自己発見をなしとげるような読書も、作品の奥底に秘められた作者の思考を再発見するような読書も、プーレにおいては実体主義的なフィクションとして退けられる。
 以上のようなプーレの主張は、近代的な読書観の最終的な産物といえるだろう。プーレの観点からは、たとえば読書経験を「旅」に比喩するようなモレッティの教養主義もまた、読者の存在を実体化するものとして否定される。作品を通じて成長するような読者など、どこにも存在しないのである。読者とはテクストの<意識>を成立させるための、必然的であるが無内容な一契機にすぎない。作者にしても同様だろう。(P135)
 プーレにおいては作品は、印刷された紙の束でもなければ多数の言語の羅列でもない。それはテクストの<意識>なのである。作品はテクストの<意識>にまで換言される結果として、永遠の自己反復に戯れる究極の存在となる。近代的な読書観が不可疑の前提とする作者や読者という主体は、あらゆる主体性を剥奪され無限に抽象化されざるをえない、しかしプーレ的なテクストの<意識>を、イーザーのようにヘーゲル的精神の別名ではないか、あるいは意識の物象化ではないかと批判してもさして意味があるわけではない。
 問題はプーレの読書論が近代的な読書観を徹底化し、それを半ば以上も解体しながら、なおその内側に位置しているという点にある。後から否定するためにしても、プーレは近代的な「作者―作品―読者」の三項性から出発する。次に第一項と第三項を、新たにテクストの<意識>と定義された第二項に還元する。近代的な三項図式は、このような手続きでテクストの一元論に転化させられる。しかし、無限循環する自己完結的な存在それ自体が近代において生じたのだし、一人で本を黙読する私こそ近代的主体の理念型ではないだろうか。
 作者の思考が作品に映され、読者は作品を通じて作者の思考を想像的に再現する。近代的な三項図式からするなら作者が究極の主体である。作品を通じて読者を従属させる自己完結的な作者に、作者と読者を二つの契機として統合した自己完結的な作品=テクストを、プーレは対置しているにすぎない。(P136)

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