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2008年1月

2008年1月30日 (水)

ハリーポッターがエンディングへ(11)

 「アーサー王伝説」にもマーリンという魔術師が登場しますし、『ゲド戦記』のゲドも魔法を使います。『指輪物語』のガンダルフも「灰色の魔法使い」と呼ばれていました。古来ファンタジー小説には魔法使いや魔法は付き物であったはずなのですが、世界的なベストセラーになればこうした悩みも生れるということなのでしょうか?私は作者には最終巻のタイトルに“Hallows”という神聖な言葉を附すことで、そうした批判を少しでもかわそうとする狙いもあったのではないかと推測しています。でなければ英国人でもほとんどしらない『Hallows=秘宝』というタイトルは不自然でしかないでしょう。内容を読まずタイトルだけを目にした人にとっては“Hallows”という単語は「神聖」なものというイメージを与えるに違いありません。それによって少しでも愚かな大人の監視の目をかいくぐり、ひとりでも多くの子供たちに「読書の楽しみ」を知ってもらいたいと願っています。古来から子供たちはそうして成長して来たのですから。

 訳者の松岡佑子氏がインタビューで「たくさんのお母様方から『子供が本を読まなかったのに、ハリー・ポッターだけは読みます』とか、お子さんからも『こんな長い物語を読んだことはなかったけれど、ぼくははじめて読みました』などという声をいただきました。読書の楽しみを再発見させる役割をはたしたというのは、ハリー・ポッターだからこそできたのではないかと思います。(中略)私の心の中では、子供が本を読むようになったということが、一番印象の強い出来事でした」と語っているように、活字離れが進む時代にあって、子供が本に戻ってきてくれたことは大いに喜ばしいことだと私も思っています。「さらに言うなら、大人も子供も一緒に楽しめる本だったというのが不思議な現象でしたね。『親子の会話が成り立った』」ということも今の時代にあってはさらに大切なことなのではないでしょうか。

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2008年1月28日 (月)

チーム・バチスタの栄光(3)

 『医龍』で知ったことですが、バチスタや心臓移植のような難しいオペの場合には、医者は必ず専門のチームを組みます。執刀医に助手、麻酔医に臨床工学士、機械出しの看護師と外回りの看護師、それに病理医者です。『医龍』では藤吉がそれに近い役割を果たしていました。

 『チーム・バチスタの栄光』では執刀医がアメリカ帰りのゴッドハンド臓器統御外科桐生恭一助教授(42歳)、第一助手が垣谷雄次講師(49歳)、第二助手は酒井利樹助手(30歳)、麻酔医は氷室貢一郎講師(37歳)、臨床工学士は羽場貴之室長(53歳)、機会出し看護師は星野響子(24歳)、病理は基礎病理学教室鳴海涼助教授(37歳)と7名のチームで構成されています。このチームでバチスタ手術で無傷の26連勝を成し遂げたのです。
 執刀医の桐生助教授は「私は、自分の手術をパーフェクトと考えたことはありません。世界を見渡せば、上がいます。手術は論理の積み重ねです。切断できるところは切断する。切断できないところは、結紮(けっさつ)し切断する。組織を牝で切離し、適切な強さで縫合する。単純な作業の反復です。それだけのことですが、私はこれまで、心から満足する手術ができたことはまだありません。患者の命がかかっているのだから、そこを目指すのは当然です。私はパーフェクトではありませんが、パーフェクトを目指しています」と言い切ることのできる立派な医者です。『医龍』の朝田とはタイプこそ違いますが、医者としての信念と情熱は同じ物に感じさせる医者であることは間違いなさそうです。

 2月9日から東宝系で映画が公開されるようですが、誰がどの役を演じるのかが楽しみです。犯人は分かっているので、多分私は見ないと思いますが・・・

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2008年1月26日 (土)

チーム・バチスタの栄光(2)

 『医龍』である程度の心臓手術に関する医学用語は覚えていましたが、先のエピドラチューブという言葉はこの小説で初めて知りました。小説内では主にエピドラと表現されていますが、エピドラとは一般的に「硬膜外麻酔」のことを言うそうです。通常の麻酔だけで対応できないオペや無痛分娩などに利用される麻酔法です。『医龍』では若い患者が多かったために、通常の麻酔だけですんでいたのかもしれません。
Epidra02
 一般的に麻酔には「全身麻酔」「脊椎麻酔」「硬膜外麻酔」「局所麻酔」の4つの種類があります。心臓手術のような場合は勿論「全身麻酔」が使われます。「全身麻酔」はでは「硬膜外麻酔」とはどんな麻酔法なのでしょう。
 「全身麻酔」は『医龍』でもおなじみになった、薬剤を静脈から注入して意識をとります。『医龍』の荒瀬はゆっくり数えて7つという理想的な速度で患者を落としていたのです。その後,気管の中に管を通して(気管挿管),その中に酸素や麻酔のガス(笑気,吸入麻酔薬)を流して人工呼吸を行う方法と,顔(フェイスマスク)や喉の奥にマスク(ラリンジアルマスク)をあてて同様に酸素や麻酔のガスを流す方法があります。Epidra03
 それに対し「硬膜外麻酔」は「脊椎麻酔」同様に背骨のすきまから針をさして行う麻酔です。この麻酔単独では回りの様子が分かったり,声は聞こえますが,硬膜外腔という脊髄の外側の腔に細いチューブを入れ,そこから局所麻酔薬や鎮痛剤をいれますので,途中で麻酔が切れることはありません。さらに,手術後もこのチューブを使用することにより,傷の痛みが軽くなりますので、主に無痛分娩に多く利用されているようです。高齢者で全身麻酔だけでは身体の負担が大きくなりますので、全身麻酔と併用することが多いようです。
 麻酔の講義はここまでにしましょう。何故最初に麻酔の話をしたかということは、『チーム・バチスタの栄光』を読まれた方ならお分かりのことと思います。

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2008年1月25日 (金)

チーム・バチスタの栄光(1)

 第4回の「このミステリィがすごい大賞」を受賞した海堂尊の『チーム・バチスタの栄光』が出版されたのが2006年の6月でした。
 2006年の6月といえば、あの『医龍』の放送が始まった月でもあったのですが、憶えていらっしゃいますか?おそらくフジTVが『チーム・バチスタの栄光』の出版とのW効果を狙ってのものだったのだろうと私は推測しています。
 『医龍』についてはさんざんに書いてきましたし、『医龍2』が先月終わったばかりなので、バチスタ手術については改めて説明するまでもないでしょう。
Tbg03
 このエッセイでは主に『医龍』と『チーム・バチスタの栄光』との違いを中心に考えて見たいと思っています。単純に言ってしまえば『医龍』は心臓手術をメインにした医療ドラマで、朝田たちチームバチスタの患者は全て奇跡的に助かるのですが、『チーム・バチスタの栄光』は術中死が起きてしまうのです。それも26例連続して成功していたバチスタ手術が27例目で突然術中死を起こしてしまう。28例目は成功するのですが、29・30例は共に術中死になります。
 医療ミスか殺人かというサスペンスがミステリィ仕立てになっているのが『チーム・バチスタの栄光』です。残念ながら本格ミステリィファンにとっては犯人探しは容易過ぎました。麻酔医が29例目の患者にエピドラチューブを挿入しているシーンを読んだ時にピーンと来てしまいました・・・
オペ室での殺人は簡単なように見えてなかなか大変なのだということをこの小説が教えてくれました。作者の海堂尊死は某医療研究機関で病理を研究する医者だそうですが、やはり医者でなければ書けない描写がとても参考になりました。

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2008年1月24日 (木)

終戦のローレライ(11)

 科学技術の進歩は止めようがない。問題はその技術の使い方なのである。そしてそうした新しい技術を人々の平和と幸福のために正しく利用できる人間こそが「ニュータイプ」なのだと私は信じたい。数万年で進化を遂げてきた人類も、わずか百年の間の急激な状況の変化に対応出来ずにいる。その最たるものが科学技術である。「重力に魂を引かれた人間」であったとしても、科学技術の正しい使い方は考えられるはずである。原子力は化石燃料の代替エネルギーとしては不可欠なものになるかもしれないが、兵器としての仕様は極めて危険であることは誰もが知っている。しかし、核兵器の廃絶どころか、抑止力として保持しようとする国が増えているのが実状である。
 事実上核の廃絶が難しいのならば、放射能を無害化できる技術の開発に努力すべきではないのか?少なくとも核兵器を持たない国の使命として……不治の病とされた癌でさえ克服できそうな時代になっている。放射能さえ無害化できれば原子爆弾もただの爆弾に過ぎなくなり、抑止力にもなりえなくなる。そうすれば核保有国など何の脅威もなくなるはずである。難しいことは分かっているが、それを望み実行できるのが本当の「ニュータイプ」なのではないだろうか?Loreley07
 最後に「そこに豊かさはあったのか。自由の喜びはあったのか。本当に豊かになったのなら、なぜ際限なく成長を求め続けるのか。本当に自由になったのなら、なぜ息苦しさがいつまでもなくならないのか。確かに見た目の豊かさは手に入れた。だが飽食の時代という言葉とは裏腹に、日本人はいまだに飢えている。利己主義、貪欲、猜疑心、闇市で馬脚を現した本性に操られ、我々はなにか大事なことを学び忘れたまま、ここまできてしまったのではない。経済という言葉で欲望を粉飾し、正当化して、闇市の頃よりタチの悪い社会を作り上げてしまったのではなかったか。
 恐怖に対抗するために、自らが恐怖になることを強いられる力の理論。組織と個人、全体と個のあり方。あの戦争が残したのは、戦争は悲惨だなどいうバカでもわかる教訓だけではない。もっと学ぶべきことがあったはずだ。にもかかわらず、我々はすべてを忘却の淵に沈めてきた。愛国がだめなら愛社だとばかり、帰属の対象を国家から企業に移し、国という大元の共同体を無視して企業エゴを加速させてきた。お陰でエコノミック・アニマルと呼ばれるほどの経済力は身につけたが、国力そのものは、石油の価格が高騰しただけで慌てふためく脆弱さをさらした。経済力を軍事力と置き換えれば、そっくり同じ歴史をくり返しているとなぜ気づかないのか。気づいてもやめられない、もう後戻りできないところまで日本は再び来てしまったのか―――」という温子(パウラ)の想いで締めくくろうと思う。

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2008年1月23日 (水)

ハリーポッターがエンディングへ(10)

 それにしても“Deathly Hallows”の邦題に訳者がかなり苦心したと聞いていますが“hallow”とは本来「清める; 尊敬する, 神聖視する; 神に献げる」という意味の動詞として使われるのが一般的です。名詞として使われる場合は「聖人・聖職者」としか辞書には記載されていません。第5巻”The Order of the Phoenix”の”The Order”は英国の歴史用語で「騎士団」という訳語が辞書にもありますが、“hallow”という言葉は母国イギリスでもめったに使われない単語のようです。”the Deathly Hallows”とは直訳すれば「神に対する死の貢物」ということになるはずです。このタイトルから推測するに、かなりの仲間たちが神の御許に召されることになるでしょう。
 訳者も「『ハリーポッター』10年の思い出!」というインタビューの中で「『死の秘宝』では、J.K.ローリングはほんとうに、ふんだんに、惜しげもなく、たくさんの人を殺してくれました……」と語っているほどなのです。『死の秘宝』と考えると意外な感じですが、「神に対する死の貢物」と解釈すれば、悲しく残念な気はますが、特に意外な感じはしないはずです。
Kingaser01
 イギリスには「アーサー王伝説」が根強く生きており、モードレッドとの戦いでアーサー王をはじめ王に従った円卓の騎士の大半も、キャムランの丘で討ち死にしてしまいます。J・K・ローリングもそうした英国の伝統を受け継いでハリーポッターシリーズに幕を下ろそうとしたのかもしれません。また、ハリー・ポッターシリーズには「宗教批判」が付き纏っていました。「ハリーポッターシリーズは魔女・魔法使いの冒険を描いたストーリーであり、児童文学において同様のテーマ(オカルト)を扱った小説が多数出版される原因となった」とされ、大ベストセラーになるにつれて、「神以外に由来する超自然的な力である魔術を罪だとするキリスト教やイスラムの保守派・原理主義者から、『オカルトを助長し魔術を美化する』、さらには『悪魔的で許しがたい邪悪な物語』などと批判を浴び」ることになるのです。「聖書では魔術を罪と明確に定めている」というのです。ファンタジー小説に対して大人気ないと言ってしまえばそれまでですが、それこそが宗教の持つ排他的な根深さなのでしょう。

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2008年1月22日 (火)

終戦のローレライ(10)

 もうひとつ私たちは『終戦のローレライ』を通して学ばなければならないことがある。それは米空母艦長マーティン・オブライエンの次のような言葉である。「この大戦で、合衆国は人類史上最強の軍事力を手に入れたんです。今後はなにもかもが変わっていくでしょう。頭の中身は石器人の頃からたいして進歩派していないのに、道具ばかりが強力に発達してしまって……。情報部なんぞに勤めたお陰で、政治の裏舞台に首を突っ込んでおりますとね、見えてくることがあるんですよ。この力を使いこなす叡智は、人類にはない。我々は、破滅に至る道を突き進んでいるのではないかとね」この言葉は世界最大の兵器を保有するアメリカ軍人の自戒であるが、そうした想いを抱いているアメリカ軍人がどれほどいるだろうか?Atomicbom01
 現実にアメリカは日本に2基の原子爆弾を投下し、数十万人の命を奪った国である。「発達した道具や技術が人の心性を歪め、野心を育てて、世界規模の壊乱を引き起こす。いまも変わらない――いや、きっとあの時を境に人は、世界は変わったのだ。あれから幾度か大きな戦争が起こったが、そのたびに人はなにかしら新しい要素をそこに加え、その後始末に奔走させられてきた。冷戦下における原子爆弾……核兵器の蔓延。枯葉剤に代表される化学兵器が、敵味方を問わず深い傷跡を残したベトナム戦争。絶対に的を外さない爆弾で、敵の中枢のみを狙い撃つというピンポイント爆撃――今回の旅客機テロの原形となったそれは、湾岸戦争で初めて一般の耳目に触れた」という温子(パウラ)の言葉をかみしめて欲しい。

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2008年1月21日 (月)

ハリーポッターがエンディングへ(9)

 それと『死の秘宝』ではペチュニア叔母さんの存在も重要になってきそうな雰囲気があります。『不死鳥の騎士団』の冒頭で、ダーズリー叔父さんがハリーを追い出すことを強行に拒んだのもペチュニア叔母さんでした。『不死鳥の騎士団』のラストでダンプルドアは「あやつ(ヴォルデモート)は、その魔法を過少評価してきた。――身をもってその代償を払うことになったが。わしが言っておるのは、もちろん、君の母上がきみを救うために死んだという事実のことじゃ。あやつが予想もしなかった持続的な護りを、母上はきみに残していかれた。今ただ一人の血縁である妹御のところへ、きみを届けたのじゃ」とハリーに告げる。「叔母さんは僕を愛していない」と反論するハリーにダンプルドアは「きみが、母上の血縁の住むところを自分の家と呼べるかぎり、ヴォルデモートはしこできみに手を出すことも、傷つけることもできぬ。ヴォルデモートは母上の血を流した。しかしその血はきみの中に、そして母上の妹御の中に生き続けている。母上の血が、きみの避難所となった。(中略)きみの叔母さんはそれをご存知じゃ。家の戸口にきみと一緒に残した手紙で、わしが説明しておいた。叔母さんは、きみを住まわせたことで、きみがこれまで十五年間生き延びてきたのであろうと知っておられる」と優しく語って聞かせるのです。ハリーの母親リリーの唯一の血縁であるペチュニア叔母さんの役割も大きなものになるに違いありません。

Hpotter21  最終巻『死の秘宝』を読む前に、第一巻『賢者の石』からもう一度シリーズを通して読み直してみることも必要なのではないでしょうか?作者の脳裡には最初から最終巻のラストシーンが頭にあったということですから、そこへ行き着くまでの様々な謎やヒントが個々の作品に含まれているはずです。10年という長い歳月が経過し、各巻の記憶も薄れ始めているに違いありませんから。邦訳を待たれる方はまだ半年もの時間があるのですから、是非『賢者の石』から『謎のプリンス』までの再読をお勧めしたいと思います。幸い第4巻の『炎のゴブレット』までは廉価版のペーパーバックが出版されています。私はといえば“Deathly Hallows”の原書読解のために、第1巻から原書を読み始めています。原書の文章と邦訳の文章の読み比べていると訳者の苦労が良く判りますね。

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2008年1月19日 (土)

終戦のローレライ(9)

 確かに朝倉大佐が「米国は、アメリカ合衆国は圧倒的に豊かで、日本人は肉体的にも精神的にも飢えてきっているからだ。方向の精神、律儀さと勤勉さ、武人たらんとする男、大和撫子たらんとする女……。本来、個々人が持ち得ていた美徳や道徳観念を、義務として押付けられた瞬間から、日本人は豊かさを失った。我々はとっくの昔に窒息していたんだよ。その箍が外れ、米国の物量経済が真空地帯になだれ込んだら……日本人は呆れるほど簡単に米国に尻尾を振るようになるだろう。指針を失った人心は形(なり)だけ似た経済至上主義に飛びつき、まやかしの自由を詠って飢えを満たそうとする。そして義務化された美徳や道徳観念は否定され、急速に人の心から消えてゆく。その先にあるものは……復興に名を借りた欲望の暴走、狡猾、打算、成算。東洋の敗戦国を基地にし、植民地主義に変わる政治的支配の実験場として、ありとあらゆる試みを国家規模で押しつける勝者の傲慢。それを勝者の正義として受け入れる、敗者たる日本人の卑屈さ」と予期していた時代が到来しているが、福井晴敏のこうした考え方はデビュー当時から一貫したものである。戦後作家だから書けることで、戦前・戦中の作家で今の日本の現状をこのように予測していた作家は少なかったに違いない。
Loreley09
 しかし、福井晴敏は必ずしも朝倉大佐や『亡国のイージス』の宮津艦長の息子の考えに同調している訳ではない。「破壊の後の再生などはあり得ない。いまある物を組み直し、やり直そうとする心根の中に“希望”や“豊かさ”は訪れる。そう信じ、信じられる自分を信じて、征人はもう臆することなく虚無に繋がる穴を凝視し」する折笠や仙石曹長の孤独な戦いを描き出すのである。
 福井晴敏にとっての朝倉大佐や宮津艦長の息子の意見は理想ではなく、今ある日本の状況に対する「提言」だと私は理解している。でなければ彼らの理想実現はテロリズムと見なされることになる。「革命」が真の「革命」になるためには国民のコンセンサスはどうしても必要なのである。それがない「革命」はただの「叛乱」としか見なされない。日本では「五・一五事件」がその典型であろう。

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2008年1月18日 (金)

ハリーポッターがエンディングへ(8)

 “The Dark Load Ascending”闇の帝王の台頭という第1章のタイトルから推測すると、『謎のプリンス』では全く姿を見せなかったヴォルデモートが最終巻の“Harry Potter and the Deathly Hallows”では巻頭から登場しそうな雰囲気です。宿敵のダンプルドアが死んだとなれば当然のことでしょう。
 「不死鳥の騎士団」の中でトレロニー先生に代わり「占い学」を担当することになったケンタウルスのフィレンツェが「この十年間、魔法界が、二つの戦争の合間の、ほんのわずかな静けさを生きているに過ぎないと印されていました。戦いをもたらす火星が、我々の頭上に明るく輝いているのは、まもなく再び戦いが起こるであろうことを示唆しています」とハリーたちに語っていたことを思い出して下さい。この二つ目の戦争が最終巻の『死の秘宝』で必ず勃発するに違いないのです。トレロニー先生の占いとは違い、フレンツェの占いは信用できることは読者の皆さんはご承知のはずです。

 しかし、トレロニー先生の占いでひとつだけ当たっていたことがあります。「闇の帝王を打ち破る力を持った者が近づいている……七つ目の月が死ぬとき、帝王に三度抗った者たちに生れる……そして闇の帝王は、その者を自分に比肩する者として印すであろう。しかし彼は、闇の帝王の知らぬ力を持つであろう……一方が他方の手にかかって死なねばならぬ。なんとなれば、一方が生きるかぎり、他方は生きられぬ……闇の帝王を打ち破る力を持った者が、七つ目の月が死ぬときに生れるであろう……」という予言です。『不死鳥の騎士団』でヴォルデモートが魔法省の神秘部で手に入れようとしていたのは、まさにこの予言でした。ダンプルドアは魔法省での戦いの後にそのことをハリーに始めて知らせるのです。スネイプといいトレロニーといいハリーが最も嫌っている先生たちが結局ハリーを救うことになるのかもしれないというのも、作者の意図があってのことでしょう。

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2008年1月17日 (木)

こころを癒す音楽!!

 最近は仕事のストレスのせいか不眠に悩まされています。
 以前にファンタージーや子供の本を読むことで癒され、睡眠薬代わりになると書いたことが、どうやらそのレベルを超えてしまったようです。
 睡眠薬が1錠から2錠へと増え始めています。これではまずいと思い、今度は音楽を聴くようにしています。最近は通勤中はずっとiPodを利用しています。睡眠前もタイマーをセットして中島みゆきを聴いています(笑)
 最初のiPod shaffleは500MBしか容量がなく100曲程度の音楽しか持ち歩けませんでしたが、今度のiPod nanoは4GBで1000曲もの音楽を持ち歩けるようになっています。
 私のiPodにはモーツアルトから中島みゆきまで幅広いジャンルの癒し系の音楽を詰め込んであります。おかげで会社でのイライラや不眠も徐々に改善されつつあるようです。
 Ipod02
最近は便利な世の中になり、インターネット上で楽曲を視聴してから購入し、PCにダウンロードできます。レンタルCDにない楽曲はiTuneStoreで購入していますが、MUSICOという音楽サイトで「10万曲無料ダウンロードキャンペーン」をやっていたので、覗いてみました。
 すると「MP3形式楽曲配信特集ページ」になつかしのオフコースのアルバムがずらりと並んでいるではありませんか?おもいっきり悩んだ挙句に"I LOVE YOU"を選びダウンロードしました。MP3ファイルなのでiPodにも追加できました。
 無料というと何か裏があるのではと勘ぐりたくなるのが人の性ですが、本当に無料でした。OCNの宣伝と考えればいいと思います。必要なものはメールアドレスだけでした。
 試して見ようと思われる方は、私の『PARC』というブログに詳しい方法を書いておきましたので参考にして下さい。
 昔ばかりを懐かしんでもいられないのですが、時には懐かしい音楽に耳を傾けながらこころをやすめる時間も必要なのかもしれませんね。

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2008年1月15日 (火)

終戦のローレライ(8)

 福井晴敏は明らかに私と同じ「ガンダム」ファンである。それが嵩じて「ターンAガンダム」をノベライズしてしまった経緯を持っている。本作の上映当時放送されたフジテレビ系列の報道番組に生出演した際、「『ガンダム』を50歳代以上の人達にどうやったら理解してもらえるか」と、本作の企画意図について発言していたというから、パウラは「ニュータイプ」として描きたかったのかもしれない。「ガンダム」では戦争のための「兵器」として利用されてきた「ニュータイプ」を「終戦」のための「兵器」としたところに福井晴敏の強い想いが感じられた。パウラの操る《ナーバル》は「ガンダム」で言うところの「サイコミュー」にあたるのだろう。Loreley06

 『終戦のローレライ』はガンダム世代の読者には違和感なく受け入れられるだろう。しかし、「ニュータイプ」=「エスパー(超能力者)」と考える人たちにとっては受け入れるのは難しいかもしれない。「ガンダム」シリーズの中でも「ニュータイプ」という言葉の定義はさまざまだが、私は庵野秀明氏が最初に提唱したジオン・ダイクンの言葉「ニュータイプは人の革新である」と解したい。従って「ニュータイプ」の能力があるとすれば、それは「戦争」のためではなく「終戦」や「平和」のために使われるべきものであろう。それ故の『終戦のローレライ』なのである。

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2008年1月14日 (月)

ハリーポッターがエンディングへ(7)

 しかし、スネイプは『不死鳥の騎士団』でハリーに「閉心術」の個人レッスンをするようにダンプルドアから命じられたこと、「パッドフット」というハリーのメッセージを理解し、「不死鳥の騎士団」に連絡を取ったこと、『謎のプリンス』ではダンプルドアが最後までスネイプを頼っていたことなどを考え合わせると、スネイプはダンブルドアの信頼する「不死鳥の騎士団」の一員であると考えざるを得ないのです。「閉心術」はスネイプがヴォルデモートに真意を読まれないために必要だし、そうでなければマグルとの混血であるスネイプが「死喰い人」に加わることなどできなかったはずなのですから。
Hpotter06
 『不死鳥の騎士団』でスネイプはハリーに「閉心術」を教えるにあたり、「『読心術』というのはマグルの言い種だ。心は書物ではない。好きなときに聞いたり、暇なときに調べたりするものではない。思考とは、侵入者が誰彼なく一読できるように、頭蓋骨の内側に刻み込まれているようなものではない。心とは、ポッター、複雑で、重層的なものだ――少なくとも、大多数の心とはそういうものだ」と非常に興味深いことを語っているのです。そして「『閉心術』に長けた者だけが、嘘とは裏腹な感情も記憶も閉じ込めることができ、帝王の前で虚偽を口にしても見破られることがない」と続けている。この言葉は非常に重要で、スネイプがヴォルデモートのスパイであっても決して本心を読まれることはないと語っていることになるのではないでしょうか。
 ダンプルドアの死に関しても、分霊箱を手に入れるために呑んだ液体がダンプルドアに多大な危機を与える毒薬であった可能性もあるのです。もし、あの液体がダンプルドアをヴォルデモートの仲間に引き入れるための、あるいはダンプルドアが抱えている秘密を明かすための強力な毒物であったなら、スネイプはそれを知っていてダンプルドアの指示通りに殺したとも考えられはしないでしょうか?おそらくこうした経緯はダンプルドアの遺言の中で明らかにされることになるかもしれません。

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2008年1月13日 (日)

ハリーポッターがエンディングへ(6)

 『謎のプリンス』の最終章でハリーは「学校が再開されても、僕は戻らない」と呟き、「ゴドリックの谷に、戻ってみようと思っている」「僕にとって、あそこがすべての出発点だ。あそこに行く必要があるという気がするんだ。そうすれば、両親の墓に詣でることができる。そうしたいんだ」とロンとハーマイオニー告げる。「それからどうするんだ?」というロンの問いに、「それから、残りの分霊箱を探しださなければならないんだ」と答えるのです。「僕がそうすることを、ダンプルドアは望んでいた。だからダンプルドアは、僕に分霊箱のすべてを教えてくれたんだ。ダンプルドアが正しければ――僕はそう信じているけど――あと四個の分霊箱がどこかにある。探し出して破壊しなければならないんだ。それから七個目を追わなければならない。まだヴォルデモートの身体の中にある魂だ。そして、あいつを殺すのは僕なんだ」という固い決意をロンとハーマイオニーに語るのです。Hpotter11
 最終巻“Harry Potter and the Deathly Hallows”は36章+αで構成されています。前半の18章のタイトルは次の通りです。
 第1章The Dark Load Ascending 闇の帝王の台頭
 第2章In Memoriam 追悼文
 第3章The Dursleys Departing ダーズリー家の出発
 第4章The Seven Potters 七人のポッター
 第5章Fallen Warrior 落ちた戦士
 第6章The Ghoul in Pyjamas パジャマを着たグール
 第7章The Will of Albus Dumbledore ダンブルドアの遺言
 第8章The Wedding 結婚式
 第9章A Place to Hide 隠れ家
 第10章Kreacher’s Tale クリーチャーの物語
 第11章The Bribe 袖の下
 第12章Magic is Might 魔法は力なり
 第13章The Muggle- Born Registration Commission マグル生れ登録委員会
 第14章The Thief 盗人
 第15章The Goblin’s Revenge ゴブリンの報復
 第16章Godric’s Hollow ゴドリックの谷
 第17章Bathilda’s Secret バチルダの秘密
 第18章The Life and Lies of Albus Dumbledore ダンブルドアの生涯と偽り
 第7章の“The Will of Albus Dumbledore”「ダンブルドアの遺言」や第18章の“The Life and Lies of Albus Dumbledore”「ダンブルドアの生涯と偽り」というタイトルを見れば、ダンプルドアは間違いなく死んでいるはずです。『謎のプリンス』ではスネイプとの打ち合わせのもとにダンプルドアの死を偽装したのではという憶測も可能だした。確かにスネイプとダンプルドアの間にはここまで隠されている秘密があることは間違いないようです。そうでなければダンプルドアがそこまでスネイプを信じていた根拠がはっきりしないのですから。ただ単に死喰い人から抜け出したというだけではハリー同様、誰もスネイプが「不死鳥の騎士団」のメンバーでいることに疑問を感じない訳にはいかないでしょう。ましてダンプルドアを殺してしまった今となっては……

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2008年1月12日 (土)

終戦のローレライ(7)

 『終戦のローレライ』の影響か、『逆襲のシャア』という劇場版アニメで、シャアは朝倉大佐と同じことを考えている。朝倉大佐は日本再生のために、シャアは地球再生のために、東京や地球を核で汚染させようとするのである。「Zガンダム」ではエウーゴの一員として地球連邦を我が物にしようとしていたティターンズを抑えるために、シャアはアムロやブライトと共に戦っていたのである。そのシャアが何故地球にコロニー落しを強行し核の冬を誘発しようとしていたのかが理解できない人も多かったに違いない。しかし、『終戦のローレライ』を読めばその謎が解けるのである。
Gundam02
 『日本にあって、国際人たれと教育を受けてきた海軍将校だ。それがなぜやすやすと時勢に流された?(勝てない戦争を始めたことを指す)大衆はもとより、それぞれに知恵を持つ知識層までが無意味な精神論に走り、勝てない戦争を勝てると信じ込んだのはなぜだ?』という朝倉大佐の言葉をかみ締めて欲しい。
『思想統制の結果だけでこうはならない。押付けられれば、どことなりと逃げ道を探るのが人の質だ。こうもやすやすと軍政を受け入れ、勝てない戦に一丸となって突入したのは、そうさせる下地が日本にあったからだ。八百万の神がおわす国、不滅の神州、畏くも天皇陛下が治められる国……。自分たちは特別だと信じる中身のない高慢と、それを支える精神的な柱。その根元に寄り添ってさえいれば、安心して生き、死んでゆける。己の尊厳を仮託するものがこの国にはあるからだ。拠って立つもの存在が、日本人の正当な知の発動を妨げていたからだよ』と朝倉大佐は語り、さらに『そういう生き方が許された時代もあった。しかしいまは違う。日本の理念が国際社会では通用しない現実を、この戦争は我々に思い知らせた。にもかかわらず、もはや無力と証明された先進論を振りかざし、視野狭窄な作戦から生み出される戦略的齟齬をごまかし、己の無能を隠蔽し続けている奴らがいまも存在する。それは度しがたい。もし日本が敗戦後に生まれ変われるのなら、この精神論の根本、拠って立つものを完膚なきまでに叩き潰した方がいいのかもしれん。現人神も、八百万の神も存在しない。日本列島は資源の乏しいただの島でしかない。己の行動の論拠は、己自信で立てるよりないのだとわからせるために』と続ける。朝倉大佐の最後の言葉は『逆襲のシャア』のシャアの言葉に似てはいないだろうか?

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2008年1月11日 (金)

赤い指(3)

 しかも、物的証拠がいくらもあるというのに、加賀刑事は心理作戦で加害者の父親を追い詰めて行くのです。この背景にはこの母親は命がけでも子供を守ろうとするが、父親は違うという東加賀刑事独特の勘のようなものがあります。あの湯川学でさえ、ニュートンやアインシュタインの勘は信じているのです。科学者の仕事はその勘を実証することだと……刑事の仕事も同じでしょう。

 『赤い指』の最大の魅力はこれまで謎に包まれてきた加賀恭一郎の過去が徐々に明らかにされて行く部分だと思っています。正直、この小説は倒叙小説としては『容疑者X悲劇』には遠く及びません。東野圭吾自身がほとんど倒叙小説を書いていませんから、『赤い指』は倒叙小説としては試作的な意味合いが強かったのだと思います。それを補って余りあるのが隆正が加賀の父親だといつ見抜くかという謎と、それが判明してからも、何故加賀が実の父親の見舞いにさえ行かないのかという謎だったのではないでしょうか?
 加賀は最後に脩平に家族の写真を見せながら「独り暮らしだった。看取ってくれる人もなく、一人で死んで行った。親父はそのことをずっと気にしていた。死ぬ間際、どれほど一人息子に会いたかったろうと思うと胸がしめつけられそうになるといってね。だから親父は決めたわけだ。自分も一人きりで死んでいこうとね。俺にはこういったよ。息を引き取るまで、絶対にそばによるなって」と語る。この言葉が一番印象に残っている。息子の罪を知りながら、妻に説得され屍体遺棄までしてしまう親子との対比が見事である。
 この小説を『容疑者Xの献身』と同列の倒叙探偵小説として読むなら、つまらない探偵小説という評価になる。しかし、ある種の父子論として読むことができれば読む価値のある作品のひとつと言えるだろう。「ガリレオ」シリーズは勿論だが、「加賀恭一郎」シリーズも書き続けてもらいたいと願って止まない。

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2008年1月10日 (木)

赤い指(2)

 現実社会でも枚挙にいとまがない、凶悪犯罪の低年齢化。身内から殺人者を出した家族は一生涯十字架を背負う。乃南アサの『風紋』や『晩秋』、真保裕一の『繋がれた明日』などでも取上げられたテーマですが、東野圭吾はあっさりと二百数十頁で纏めています。映画化の影響もあり文庫本が百万部以上も売れたという『手紙』ではもっと深くこの問題を掘り下げて書いていました。『手紙』の刊行は2003年ですから、東野圭吾は「身内から殺人者を出した家族」の問題を掘り下げた作品として『手紙』を書いたのではないでしょうか?
 加賀恭一郎シリーズは探偵小説なので、「身内から殺人者を出した家族」は犯罪を構成する題材のひとつとして扱われているに過ぎない。息子を甘やかす母親と仕事を言い訳に家庭を顧みなくなる夫という構図が息子の犯罪を生んだ。東野圭吾はまずは『赤い指』で問題を提起し、『手紙』でそれを深く掘り下げようとしたのではなかろうか?と・・・それだけ東野圭吾にとって「身内から殺人者を出した家族」の問題は重要だったに違いありません。

 『赤い指』は探偵小説の面白さを損なわないために、被害者の両親の描写が少なく、加害者の父親の心境は多少描かれているものの、『手紙』とは心理面での掘り下げ方が違っています。それをすれば探偵小説としての面白みがなくなることを著者自身が良く知っていたからでしょう。東野圭吾の中ではこのテーマは別の作品でという想いが間違いなくあったと思っています。それが『手紙』という小説だったのだと私は考えています。
 『赤い指』で最も興味を惹かれたのは加賀刑事自身の家族の物語でした。読み始めは登場人物の関係がなかなか理解できずにいましたが、やがて上野の病院で死に掛けている隆正という松宮脩平刑事の叔父が加賀の父親だということが徐々に分かってくるのです。作中では隆正という名前しか出てこないので、苗字が加賀だということさえ想像ができませんでした。東野圭吾という作家はこうした細かな点まで謎とする名手と言えるでしょう。

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2008年1月 9日 (水)

赤い指(1)

 昨年10月15日にスタートしたフジ系ドラマ『ガリレオ』は、初回24.7%という高視聴率を記録し、大きな話題を集めました。『ガリレオ』とは当然東野圭吾の小説に登場する帝都大学工学部物理学科の准教授のことなのはご承知の通りです。

 そして6度も候補に挙がりながら、ようやく「直木賞」を受賞した『容疑者Xの献身』でも見事な探偵役を見せていました。これまでの「ガリレオ」シリーズは今回のドラマの原作にもなった『予知夢』や『探偵ガリレオ』のような短篇ばかりで、加賀恭一郎刑事のように長篇に登場することはありませんでした。『容疑者Xの献身』が「ガリレオ」こと湯川学准教授が登場した初の長篇小説なのです。この作品で「直木賞」を受賞したことで「ガリレオ」が登場する小説がもう少し増えるのかなと期待していたのですが、受賞後第一作の『赤い指』は練馬署の加賀恭一郎刑事でした。
 元来、東野圭吾という作家は「書き下ろし」が少なく、雑誌などに連載した後で加筆して単行本にする傾向が強い作家のようです。『赤い指』もその例外ではなく、1999年12月に「小説現代」で掲載された作品の単行本化です。1999年といえばあの『白夜行』が刊行された年でもあります。それが2006年の7月に単行本化されるのですから、作者自身「直木賞」受賞後第一作に苦労をしたのかもしれません。それと倒叙探偵小説が「直木賞」を受賞したため、文芸春秋が『赤い指』を押したことも充分にありえることだと思います。「次も倒叙物で行きましょう」と・・・
 『赤い指』は『卒業-雪月花殺人ゲーム』『眠りの森』『どちらかが彼女を殺した』『悪意』『私が彼を殺した』『嘘をもうひとつだけ』に登場した加賀恭一郎物です。ある家庭に降りかかった事件で、妻からの電話で夫が帰宅すると、家の中には不快な匂いが残り、庭には幼女の遺体が黒いビニール袋をかぶせられた状態で放置されていた。中学三年の息子が首を絞めたという。妻の懇願に、夫は息子の犯罪を隠蔽することを決意する。しかし、現場は加賀恭一郎が所属する練馬署の管轄だったわけです。

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2008年1月 8日 (火)

終戦のローレライ(6)

 第二次世界大戦時下の日本を背景として、原爆投下を阻止すべく奮闘する潜水艦の乗組員達を描いた、いわゆる潜水艦映画ではあるが、戦利潜水艦《伊507》 や「ローレライ・システム」などの架空兵器の登場、また第三の原爆、海軍の内乱など史実とは異なる展開が語られる事から、架空戦記またはSFファンタジーとしての印象が強い作品である。「ガンダム世代」の大人から見るとパウラは「ニュータイプ」なのか、「強化人間」なのかという疑問が自然に浮んでくる。《ナーバル》の中のパウラは「Zガンダム」のフォー・ムラサメに似ていなくもないが、結局、折笠と結婚し孫たちと会話を交すラストシーンなどを見ると「ニュータイプ」だったのではないかと思えてくる。祖母の資質の一部が孫娘に隔世遺伝しているように描かれているからである。01
 「ニュータイプは人の革新である」というのは「ガンダム」のジオン・ダイクンの言葉であるが、福井晴敏はパウラをナチスが作り出した「強化人間」ではなく、戦闘の中で開花した「ニュータイプ」として描きたかったに違いない。そのためのラストシーンだったはずなのに……
原作ではナチスが純粋なアーリア人の子供たちを集め「強化人間」を作ろうとしたが、結局、力を発揮できたのはパウラただひとりであったと書かれている。そのパウラを守るためにナチス親衛隊に入隊した兄のフリッツの役割も大きなものであった。それを高須という訳の分からない軍属技官と置き換えるという選択はいただけない。アムロとシャー以上に能力の差はあったにしても、もしかするとフリッツにも「ニュータイプ」の能力があったのかもしれないのだ。

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2008年1月 7日 (月)

終戦のローレライ(5)

 「しかしその一方で、あの朝倉大佐が警告した通り、個性の尊重が我欲さえも正当化し、放埓に走って手がつけられなくなるのも人間の本質なのだろう。押さえつければ硬直し、間を離せば自堕落に転ぶ。振り切っては戻り、振り切っては戻りの繰り返し。そのたびに何万、何百万の同属を殺してきた人間――。でも、それでも兄(フリッツ)は、《伊507》の人たちは、自分と征人に希望を託した。日本に住む何千万の人々、顔をも知らない他人たちが築いてゆく未来に望みを繋いだ。いつかそうしたように二人で『椰子の実』を歌い、渇きと空腹を紛らわせながら、自分たちが生きている不思議さをあらためて実感させられることもあった。守るべきもの、希望を託すに足りるもの。その時々の立脚点によって揺れ動く、明日もそうであるという保証は何もない曖昧なもののために命を賭け、死んでいった人たち。底抜けにお人好しで、大雑把で、だからこそ最後の一線では律儀であろうとする。その潔さと勇気がある限り、人が地上からいなくなることはないとパウラは思う」と福井晴敏は書いているのである。
 映画では《ナーバル》は登場せず《N式潜》となっている。特攻用に搭載されていた特攻潜水艇《海龍》と「ナーバル」を足して2で割ったような感じがしてならない。これでは「回転」操縦士清水の出番が全くない。それに本来は「回転」の整備士であるはずの折笠が艦長に特攻を志願したりするのである。原作では清水は折笠と共に《ナーバル》回収に大いに貢献する役が与えられていたのである。それが映画では溝に嵌った腕が抜けなくなり、《N式》発艦の際に水没死することになる。
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 《ナーバル》に搭載された「ローレライ・システム」とは本来ナチス開発したがパウラの水中感知能力の高さを生かすために、感知機能を増幅し《伊507》に伝達する装置だったのである。《伊507》とは戦利潜水艦に名づけられた日本名で、本来はフランス製作の《シュルクーフ号》であり、それをナチスが接収し《UF-4》と名づけられた。ドイツ敗戦で日本に譲渡されたとされる2門の大砲を装備した極めて珍しい潜水艦である。
 パウラはドイツでの実験中に《シュルクーフ》の艦長だったコルビオとも『なあ、お嬢さん。人間なんてのは、自分の足で歩いているようで、実は誰かに歩かされている。神様とかそんなもんじゃない、人の考えなんぞ及びもつかんなにかにだ。人にできることといやあ、その瞬間瞬間に最善の道を選び取って、そっちの方向にちょっとだけ足を向けるってぐらいだ。都合のいいところで留まることはできない。流れに逆らって引き返すこともできない。おれにとって、故郷に戻るってのは留まることのように思えた。だからこうして自分が選んだ道を歩き続けてる。肥え溜めに頭を突っ込む羽目になっても、少しでもいい方に行けるように足をばたつかせてるんだ。後悔なんてしてる暇はないんだよ』という会話も交している。そして『あんたもしっかり生き抜けよ』と励ましも受けるのである。

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2008年1月 6日 (日)

終戦のローレライ(4)

 映画に登場した軍属技官の高須成美という士官は、原作のフリッツ・F・エブナーの代理的な役割を果たすために新たに設定された人物のようだが、孤独で無口で絹見艦長等とことごとく対立していた元ナチス親衛隊のフリッツが、最終的には折笠や田口にも理解を示し、B29破壊に大きな役割を果たすのだが、高須は朝倉大佐のロボットのような存在でしかなかった。朝倉大佐は自分のロボットを作りたかった訳ではない。結局、田口掌砲長が折笠や絹見艦長を理解するようになるように、決して自分の同士を自分の手足として使い捨てにするような軍人ではなかったはずなのである。その結果、私利私欲のためだけに朝倉に追随していた部下に殺されることになったのである。

 原作ではローレライシステムは《ナーバル》という小型潜水艇に搭載され、海底に放置されていた。伊507の最初の任務はこの《ナーバル》の回収であり、ここで「しつこいアメリカ人」の潜水艦との死闘が繰り広げられるのである。一方で「回転」という特攻潜行艇の乗組員と整備士として清水と折笠が横須賀から伊507が停泊する呉へと向かう。途中立ち寄った広島で折笠はおケイという女と料亭で知り合う。この料亭は原爆投下の目標となっていた相生橋のすぐ近くにあり、おケイは最初の原爆投下で悶死する。「日本はいま暗いトンネルの中を走っとるけど、目の前にあるものがすべてじゃない。トンネルはいつか必ず終わる時がくる。自分はその出口を見つけるために闘うんじゃって……。あの人の口癖じゃったわ」という言葉を残して去っていった好きな男と添い遂げられず、戦争の狭間に可憐にひっそりと咲いたようなおケイというやさしい女が無残に消失させれるというエピソードは、この小説の中では重要な意味を持っていると私は思っている。
 しかし、映画ではこの部分も全く登場することはなかった。あくまでも戦闘重視の構成になっていた『ローレライ』は女性の受けは良くなかったのではと思っている。パウラと折笠の恋愛シーンもほとんど割愛されていた。結末部分も大きく改変され、原作では折笠とパウラは「ナーバル」でテニアンから無事脱出に成功し、九州に漂着する。「ナーバル」を洞窟の奥深くに沈め、二人は東京に行き結婚する。ラストは祖母となった温子(パウラ)が孫たちと「ナーバル」を沈めた場所を訪れ、過去の戦闘を思い出しながら多くの犠牲者達の声を聞こうとするシーンだったのに対し、映画では絹見の腕時計をした男が老いたアメリカ人にテニアンでの戦闘の場面を語らせるシーンになっていた。原作では「椰子の実」だった唄が「モーツアルトの子守唄」に変えられていた。

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2008年1月 5日 (土)

医龍(42)

 『医龍』では最早過去の問題となっていた「医局制度問題」を取上げ、医療監修者たちからも時代に合わないという批判を受けていた。『医龍』にはコミックの原作があったので、やむをえなかったのだろうが、オリジナル脚本の『医龍2』では一歩も二歩も踏み込んだ医療問題を取上げていた。私たちが当たり前と思い込んでいる現代の日本の医療制度にはまだまだ解決しなければならない問題が山積している。今問題になっている「薬害肝炎」の問題はそのほんのひとつに過ぎないということを忘れてはいけないと思う。

 これだけ医療技術の進んだ国にありながら心臓移植が年に数例しか行われていないこともそのひとつである。これは日本人が「脳死」問題を真剣に考えていないという無理解から起きている現象のような気がしている。「脳死」と「植物状態」の区別もつかない人間が「脳死」賛成と言ったところで絵に描いた餅である。兎に角「脳死」という人の死のあり方をもう一度考えることで、人とは何か生きるとは何かということも見えてくるのではなかろうか?
 海堂尊氏の『チームバチスタの栄光』の中で桐生助教授が「小児心臓移植は、日本では対象外です。だから一握りの恵まれた子供が米国で移植手術を目指す。メディアはそうした患者をまるでスターのように扱います。善意の人たちから寄付を集め、美談に仕立て上げる。(中略)その一方で、文化人や倫理学者に発言させ、子供の臓器移植を倫理的、あるいは感情的に問題視させる。日本で子供の臓器移植を推進しようとすると足を引っ張る。米国では美談として支援し、日本では問題視する。同じ心臓移植なのに、おかしいと思いませんか」と語る箇所があるが、まさにその通りだと思う。

 『医龍2』というドラマは大人の心臓を子供に移植するという手法を取ったが、現実問題としてはほとんど不可能なオペである。子供の心臓は子供からという米国方式を取らないと、桐生医師が言うように助かる命まで助けられなくなるのである。片岡が最後に語るように「この国の制度にも問題がある」ことは間違いない。「薬害肝炎」問題の処理の仕方ひとつ見ても、政治家は勿論だが、それ以上に厚生労働省の役人たちに腹が立つ。こんな役人たちに大切な年金や医療を任せられるはずがないのだ。そして、様々な問題提起を私たちに残して『医龍2』はフィナーレを迎えた。
 松平・小高・戸山・野村は再び北洋に戻り、朝田は再びチームを離れアメリカに渡った。彼の前に立っていた白衣の医師は一体だれだったのだろうか?果たしてパート3はあるのだろうか?ボロボロになった野口もアメリカにいたようなので、もしかするとパート3の伏線になっているのかも知れないと思っている。フジTVには是非パート3の放映を考えて欲しいと願って止まない。『白い巨塔』のように年末特番をきたしていたが、バラエティ番組のオンパレードになっていたことは残念だった。

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2008年1月 4日 (金)

医龍(41)

 野口のパーティ会場にもオペ成功の連絡が片岡の元に届く。隣の善田とシャンパングラスを合わせた後、ステージ上の野口にグラスを掲げ成功の合図を送る。笑顔満面の野口だったが、次の瞬間には背後のスクリーンに野口がこれまでに行ってきた悪行の数々が映し出されていた。善田が「グッバイ」と呟くシーンが印象的だった。これこそが善田の隠し玉だったのだ。

 一方明真では鬼頭が霧島がアメリカから持ってきた人口心臓の移植に成功していた。元々は朝田が雄太の為に霧島に依頼していたものだったが、結果的に山野の命も救うことになったのである。鬼頭は「心臓移植には限界がある」と言い。「これが神の領域」だと豪語する。日本では保険の適用にならず費用も膨大である。それを自分が率先して実践し国に認めさせると鬼頭はきっぱりと言い切ったのである。
 明真に戻った野口はゴールドマンズ・ブラザーズの会長と「瑕疵条項(かしじょうこう)」のため管理者として不適格と判断された野口と契約することはできないため、今回の融資契約は第三者に売却したと告げられていた。「瑕疵条項」とは正確には「瑕疵担保条項」のことで、買ったものに、買い主が予想もできないような隠れた瑕疵(欠陥)があった場合、買い主が、売り主に契約解除や損害賠償を請求することを認めている、民法570条の売買に関する規定である。

 そしてそれを買収したのはイーグルパートナーズの片岡だった。これで明真は片岡のものとなる。片岡は鬼頭に明真での最先端医療を任せ、地方医療は善田に任せると言い、「融資のお金はどうするの?」という鬼頭の質問にも「私は今の日本の制度に問題があると思う。患者を第一に考える医者が報われないのは、この国の制度にも問題がある」と言う。「だから…?」という鬼頭の問いに「だから、患者からではなく国からお金を取る。国の医療政策を変えて見せます。必ずやってみせます」と答え、野口の写真を取り、父親の写真と置き換えるのである。このシーンは片岡が父親の意思を継ぐのだという固い決意の表れであった。

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2008年1月 3日 (木)

終戦のローレライ〈3〉

 エリート士官として軍に入った朝倉は石原莞爾同様に軍の現状に強い不満を覚え、『人は、どれだけ人でいられるのか。知性や道徳と呼ばれるものの強度を調べて、後の参考にするといったところかな。十年先……いや、百年先の日本の将来のために』と語り、それを確かめるために自ら志願して戦地に赴くのである。そこで仲間を殺しその肉を喰らうという修羅場を経験した朝倉は、『百年先の日本の将来のために』日本再生のための仲間を集め始めた。その一人が伊507の掌砲長の田口であった。
 艦長の絹見真一は映画では役所広司が演じていたが、絹見艦長は心から朝倉の意思に同調していたわけではない。彼の本心はまた潜水艦に乗れるということの方が大きかったにちがいない。絹見は真珠湾攻撃の際《伊16》の艦長任命されたが、凱旋後は艦長を解任されその後は海軍兵学校の教官に甘んじていたのである。

 絹見の父忠輝は「戦いをやめるために発揮する勇気、それが本当の勇気だ。国民全員にそうした気概があれば、列強大国の狭間にあっても主権は維持される。争いに血をたぎらせ、益荒男ぶりを競う生き方は、過去の成人に許されても現代の軍人には許されない。なぜなら我々が扱う兵器の威力はあまりにも大きい。民百姓、女子供をも容易に殺傷するがゆえに、その扱いを任された我々は、戦闘においては誰よりも冷静な職能集団であらねばならない。指導者が誤った道を選んだなら、それを正し、自制できるのが軍人。そのために支払われる犠牲が真実の殉国であり、報国だ」と口癖のように言っていた。
 そうした言葉を聴いて育った絹見も「愚昧でも蒙昧でもない、愚直。意思して悪を為そうとした者、国を滅ぼそうとした者などひとりもいない。愚直に己の節を通さんと欲し、刀折れ矢尽きても退く術を知らず、引き返せないところにまで来てしまったこの国の人々――しかし、いまの我々はそれを否定も肯定もできない立場にいる」と言い、「だから(朝倉大佐の命令を)やり通す。それだけだ。そうすることでしか、我々は次の世代に己を示す術を知らない」と重ねるのだ。

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2008年1月 2日 (水)

終戦のローレライ(2)

 特に気になったのは朝倉良橘(りょうきつ)大佐の人物像と本来ならパウラの兄であるフリッツ・F・エブナーが幼少の頃に亡くなったという設定で登場しないこと、さらに一番面白いはずだった対潜水艦戦闘が全く登場しなかったことである。これだけの大作を2時間少々の映像に纏めるとなればかなりの割り切りや切捨ても必要なことは分かる。しかし、少なくとも朝倉大佐は映画で描かれているような人物ではなかったはずなのだ。少なくとも戦争の責任を取って自決するようなタイプの人間ではないはずであった。少なくとも私はそう信じている。朝倉大佐は満州事変の石原莞爾のようなタイプの人間ではないのかと私は原作を読んで想像していた。もし、彼の計画が成功し東京に原子爆弾が投下されていたら、今の日本はどうなっていただろう?
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 石原は1928年に関東軍作戦主任参謀として満州に赴任し、自身の最終戦争論を基にして関東軍による満蒙領有計画を立案する。1931年に板垣征四郎らと満州事変を実行、23万の張学良軍を相手に僅か1万数千の関東軍で、日本本土の3倍もの面積を持つ満州の占領を実現した傑物である。第二次大戦時も「油が欲しいからとて戦争を始める奴があるか」と絶対不可である旨説いていたが、軍に受け入れられることはなかった。
 あくまでも仮定の話だが、石原の満州国が存続してたら、日本は太平洋戦争など始めなくて済んだのではないか?そして、アメリカではなく中国や旧ソ連と近しい関係になっていたかもしれない。そうなっていたら今の日本や日本人はどうなっていただろう?
 鮎川哲也氏の小説などによると昭和10年代の満州は日本より自由で活気があったように描かれている。軍部の厳しい統制を逃れるために新天地としての満州に希望を抱いて集まってきた人々が多くいたためだと言われている。

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2008年1月 1日 (火)

終戦のローレライ(1)

 福井晴敏の『終戦のローレライ』は第二次大戦末期を舞台にした作品である。これまでほとんどの作品が現代の「自衛隊」をテーマに描かれていたことを知っている読者には『亡国のイージス』の後にこの大作(文庫版で4巻)が来る意味がよく理解できなかったのではないだろうか?
 私自身も1巻の冒頭で躓いてしまい、読了までにかなり時間がかかった記憶がある。第1巻の「解説」に藤田香織氏も書いているように、この作品は『亡国のイージス』に感動した映画監督の樋口真嗣(ひぐちしんじ)氏が、「第二次大戦を舞台にした潜水艦もので新たな原作を」と福井氏に強烈に願ったことに端を発しているらしい。
 樋口真嗣氏は1984年、高校卒業後に『ゴジラ』で怪獣造形に携わることで映画界に入る。その後、90年代に『ガメラ大怪獣空中決戦』で特技監督を務め、日本アカデミー賞特別賞を受賞している。一昨年はリメイク版の『日本沈没』の監督を務め好評を得ている。Lorelei_rock01
 ”ローレライ(Loreley)”は、ライン川流域の町ザンクト・ゴアルスハウゼン近くにある、水面から130mほど突き出た岩山のことである。スイスと北海をつなぐこの河川でも一番狭いところにあり、流れが速く、水面下に多くの岩が潜んでいるため、かつては航行中の多くの舟が事故を起こした場所であった。また「ローレライ伝説」とは、上述のようにローレライ付近が航行の難所であったことが、“ローレライ”にたたずむ金色の櫛を持った美しい少女に船頭が魅せられると船が川の渦の中に飲み込まれてしまう、という魔女伝説に変化したものである。
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 原作を読んでから『ローレライ』という映画を見ると、さすがに特撮技術の高い監督だけあって、戦闘場面には充分見所はあった。しかし、原作でもスリル満点だった《ナーバル》の回収場面や「しつこいアメリカ人」と呼ばれる米潜水艦との海底での戦闘が描かれず、朝倉大佐の最後が殺害ではなく自殺に変えられていたり、原作では重要な役割を果たしていたパウラの兄フリッツ・F・エブナーが登場していなかったりと、正直原作とテーマがかけ離れ過ぎているような気がしてならなかった。『終戦のローレライ』には「それほど遠くない昔、まだこの国が“戦争”を忘れていなかった頃――」という序文が附されている。すでに“戦争”を忘れてしまった国を舞台に書かれたそれまでの作品とは異なり、この作品では「自衛隊」論ではなく「戦争」論が重要なテーマになっていたはずである。

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